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ミヒャエル

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さて、もうじき『愛を読む人』が公開されるわけですが、これの原作の『朗読者』、わたし発刊当時、帯に寄せられた
「相当な傑作、いや、舌を巻くほどの傑作」
「だれかがこうした作品を書かなければならなかった。私は強くそう思う」
「近年、これほど心動かされた海外文学はない読み終わってしばらく涙が止まらなかった」
などなどの文化人の絶賛コメントに、ほうほう、と興味を惹かれて読みました(遠い目)。

が、しかし、いつ涙が出るのか胸が熱くなるのかと思いながら読んでいたんですが、まったくそんなことはなんもなく、物語終了。
え?、帯に書かれたような感動はいったいどこに?滂沱のように涙が溢れるのはどこ?わたしの買った本は落丁してたのか、いや、ページは抜けるてとこないよなあ、もしかして、わたしの感情のどこか欠落していてこれを理解できないのか、という釈然としない気持ちを残したまましばしの時がたったのでした。

それから、3年後、斉藤美奈子著の『趣味は読書』にそのもやもやの要因を解明してくれる文章が。

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以下ネタバレなので反転します。↓

おわかりでしょうか。『朗読者』ってものすごく「インテリの男に都合がいい話」なのですよ。都合いいでしょう、どう見ても。少年・青年・中年期を通して「ぼく」は終始一貫「いい思い」しかしていない。少年時代には頼みもしないのに、性欲の処理をしてくれて、青年時代にはドラマチックな精神な葛藤を用意してくれて、最後に彼女が死んでやっかい払いができるなら、こんなにありがたい話はない。本の朗読をしてあげた?戦争犯罪について考えた?そんなの「いい思い」のうちですよ。だいたい、この「ぼく」ってやつがスカしたヤな野郎なのだ。自分はいつも安全圏にいて、つべこべ思索しているだけ。で、この小説は、そんな知識階級のダメ男をたかだか「朗読」という行為によって、あっさり免罪するのである。

(中略)
インテリ男性が好むインテリ男に都合のいい小説。なんてわかりやすいんだろう。キモは「文学」への信頼か。いや以外に「敗北感」かもしれない。字を識らないことを隠すために一生戦い続けた彼女。字を識っているだけで一度も戦わなかったぼく。

(抜粋はココマデ)

ああっそうかー、そうだよね。ほんとミヒャエル(←主人公のぼくね)
ネタバレ→なーーんもせんかったなあ。
少年から大人になりええおっさんになり法律家になり法史学者になっても、やっぱしすることは「本を読む」ってことだったよ。確かに。うんうん。

ハイジみたいな小さい子すらペーターのおばあさんに本を読んであげるだけでなく、ロッテンマイヤーさんに怒られながらもふかふかのパンを届けてあげようとしたり、暖かいひざ掛けをプレゼントしてあげたというのに。

ていうか、読みながらずっとミヒャエルの字が読めないってことに向ける憐憫とそこはかとなく漂う上から目線に、なんだかなあ・・ともやもやした感情が。


てなわけで、映画、楽しみなような怖いような。

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